* 記事ボリュームは10,973文字です。お時間がない方は、冒頭のチャプターの「はじめに」だけをお読みください。
* サムネイルの画像は、佐々木常夫さんの本「ビジネスマンが家族を守るとき」の表紙・帯部分のアップ画像を引用しました。
はじめに
この数年で、発達障害のお子さんをお持ちの親御さんが子育ての様子を自ら情報発信されることが増えてきました。例えば、人気ユーチューバーのあっちゃんファミリーさんや虹色の朝陽さんもその一例です。
その一方で、「子供が発達障害+妻がうつ病」という私のような二重苦の境遇の方に出会ったことはありませんでした。
そんなとき、佐々木常夫さん(以下、常夫さんと記載)の書籍「50歳からの生き方」をたまたま偶然にAmazonの検索で見つけました。ちょうど半年前のことです。
その本の帯には「自閉症の息子、うつ病の妻、取締役から子会社への左遷・・・」とありました。常夫さんの家庭環境や経歴が、私の境遇とあまりにも酷似していることに驚きました。
発達障害(ASD)の子供・うつ病の妻という共通点に加えて、私も取締役から地方の事業所に左遷された苦い経験があったからです。
この本を読んだ私はたいへん感動したのですが、「常夫さんが家族とどのように対峙してこられたのか?」ということをもっと詳しく知りたくて、2冊目の書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」を購入して読みました。
これがマジでよかった。ドロドロとした家族の人間関係がリアルに描かれていたからです。
本記事では、常夫さんの書籍2冊から私が学んだ「父親としての家族との向き合い方」についてまとめました。
本記事の【結論・要約】は次のとおりです。
佐々木常夫さんは、息子さんが自閉症で統合失調症、奥さんは肝硬変とうつ病で3回の自殺未遂、娘さんは健康ながら人間関係の悩みから自殺未遂という凄まじい試練を乗り越えてこられました。
常夫さんの人生から、発達障害者家族の私が学んだ家族の在り方を7つに厳選してまとめました。
① 発達障害の我が子が好きなこと・楽しいと感じることにとことん付き合え!
② 体を張ってでも、いじめから我が子を守れ!
③ 我が子の発達障害特性にしっかり応えろ!
④ 手のかからない”きょうだい児”ほど、対話を持つ努力をせよ!
⑤ 「家族は戦友」と言えるほどの絆を作れ!
⑥ 父親は妻に対しても寄り添う時間を十分に確保しろ!
⑦ 自力ではどうすることもできないほどの過酷な苦難を「運命」として受け入れよう!
佐々木さんのご家族の履歴
常夫さん人生は、書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」の帯のキャッチコピーどおり「まさに逆境に立ち向かう男の家族再生の物語」です。
私は、あまりにも波乱万丈に富んだ彼の人生に驚愕しました。これでもか、というくらいの苦難の連続です。率直に言って、「私には常夫さんようには到底できない!」と思いました。
そこで、私はこれら2冊の本それぞれにカラーペンで下線を引きながらゆっくりと読み返してみました。
さらに、彼の講演記録(YouTube「【働き方改革】自閉症の子とうつ病の妻を抱えサラリーマンでも社長まで出世!佐々木 常夫氏「経営戦略としてのワークライフバランス 定時に帰って成果も出す方法がわかります」THE OWNER 公式チャンネル=配信))もじっくり拝見しました。
これらの3つの情報を整理して、彼のご家族の履歴を時系列にまとめると(表1)、常夫さんの終始一貫した家族との向き合い方がおぼろげながら見えてきました。
表1: 佐々木常夫さんのご家族の履歴一覧表(赤字はターニングポイント): 常夫さんの書籍に記載の事実関係から推察して年月を割り出した箇所がありますので、数カ所は ±1年の誤差があるかもしれません。
この表を辿りながら、私が佐々木常夫さんの人生から学んだ「父親しての心得」を親子関係・夫婦関係・家事・仕事・人生の糧の5つのテーマに分けて順にお話したいと思います。
発達障害児(長男)との親子関係
常夫さんとお子さんとの関係性について、私が感心したことは「家族の大黒柱としての責任感の強おさ」はもちろんですが、それ以上に私が心惹かれたことは「優しさと忍耐力」でした。といますのは、常夫さんは多少の弱音を吐くことはあっても、家族を責めることは決してなかったからです。そこが、私との大きな違いでした。
● 俊介さん(第1子・長男: 高機能自閉症・統合失調症)に対して
長男の俊介さんは3歳の時に自閉症傾向と診断され、小学校・中学校では通常学級で授業を受けておられました。知的障害はなく、記憶力に優れており、高校ではトップの成績を残しておられます(いわゆる高機能自閉症)。
高校3年時に、幻聴が聞こえ始めたことから、精神病(おそらく統合失調症)の治療を継続されています。現在は、支援施設で作業などをされているようです。
山登りが好きな俊介さん(当時小学校低学年)に対して常夫さんは次のように対応されています。
(俊介は)山登りが好きだったので、家族で毎週山登りを始めた。最初の頃は、私が娘を背中に背負って、浩子の手作りの弁当を持って5人で出掛けた。六甲山はあらゆる登山口から登り、自分の家の庭同然となった。この毎週の山登りは中学まで続いた。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p45
( )の記載は、文章全体の意味を補填するため、筆者が加筆しました。
【父親の心得1】
発達障害の我が子が好きなこと・楽しいと感じることにとことん付き合え!
一方、”発達障害児あるある”なのが、いじめの問題です。実際、俊介さんも中学校時代に壮絶ないじめを受けています。
そんなとき、親としてどのように対応するべきでしょうか? 常夫さんは驚きの行動に出ます。
俊介は相変わらず人との交流はなく、いつも一人自分の世界で過ごしていて、校庭の隅で歌を歌ったりしていた。いじめられても抵抗はせずひどく怖がるので、面白がって一部の生徒からのいじめが続発し、そのうちクラス全体に広がっていった。運動着や運動靴を隠されたり、弁当を取り上げられたりすることはたびたびであった。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p67〜68
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中略
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その後もいじめが続き、教室で生徒たちと話をしたいと(学校側に)頼み込んだが、「父兄が教壇に立つのはおかしい」と言って許してくれない。そこで、近所の生徒の一人に、今日の帰りにクラスの生徒たちに自宅に寄るように声をかけてほしいと頼んでみた。二十人ほど集まった生徒たちに自閉症がどんな障害であるかを説明し、「世の中にはさまざまな障害やハンディを持つ人たちがいる。そういった、いわば弱い人たちを無視したり、いじめたりするのではなく、励ましたり助けたりすることが大事。そういうことが自分や社会を幸せにしていく」などの話をした。
( )の記載は、文章全体の意味を補填するため、筆者が加筆しました。
【私の体験談】
我が息子(ASD+ADHD)もいじめられたことが2パターンあります。一つは、小学2年生の時、集団登校する歳に、歩くのが遅い・フラフラしているという理由から(今思えばASDの特性ですが当時は気がつきませんでした)、登校中に上級生に後ろから蹴りを入れられたり、背中を押されたりするなどの暴力を受けました。本人はかなり辛かったようです。
また、息子は小学3〜4年にかけてクラスのわんぱく少年からいじめを受けました。しかも、その子は割と近所(500m圏内)に住んでいましたので、学校だけでなく近所で出会ってしまったときにも蹴られたり殴られたり首を締められたりしました。
前者の場合は5軒隣のご近所さんで親同士も顔見知りでしたから、互いに険悪な関係になることを避けるために、学校を通じてその児童を指導してもらいました。
私はいじめっ子および彼のご両親と直接話し合いをすることも考えましたが、正直なところ勇気がありませんでした。
ただ、結果論かもしれませんが、「当事者のみの話し合いよりも学校の担任教師・生活指導担当教師・校長という第三者からの指導は円満解決に効果的」という印象はあります。
一方、後者の場合も学校を通じていじめっ子に注意してもらいましたが、いじめがなくなることはありませんでした。また、その子の家庭に複雑な問題があったため、学校側がその子の両親への指導も十分にできませんでした。
息子が小学6年生になって完全に特別支援学級に移籍したことから、学校では担任教師がしっかりと息子をいじめから守ってくれました。そのおかげもあって、近所でその子に会ってもいじめられることはなくなりました。
その5年後に、私は高校生になったそのいじめっ子が精神障害を患って心療内科に入院していることを知りました。
もしかすると、小学校時代のいじめ行為や家庭環境と無関係ではないかもしれません。それどころか、私も含めて当時の教師たちがその子の特性や不安に気付いてあげることはできなかったのだろうかと悔やまれます。
そう考えると、私はその子への怒りや恨みが完全に消えて、むしろ同情してしまうのです。
【父親の心得2】
体を張ってでも、いじめから我が子を守れ!
ところで、俊介さんの自閉症の特性の一つが、「本が大好きで読んだ内容を誰かに2−3時間ほど話さずにはいられない」というものです。この役回りは主に常夫さんでした。
俊介は1週間のうちにたくさんの本を読んでいて、その話を誰かにしないと落ち着かないため、毎週土日はそれぞれ2〜3時間、一緒に散歩をしながら、話を聞く生活が続いた。戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦いぶり、その家族や家臣の話、ヨーロッパやアラブの預言者の話、地球滅亡の可能性、世界各地の紛争や政治の話など話題はある種のものに限られていたが、話をした後必ず「どう思う?」と訊かれるので、上の空で聞き流すわけにはいかない。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p103
「俊介さんの話は時に6時間に及ぶこともあった」との記述もありますから、これもまたすごいことだと思います。でも、この特性は、自閉症児が外界に向けてエネルギーを発散させる機会になっていると考えれば、いい加減な対応はできませんよね。
【私の体験談】
ちなみに、ASD+ADHDの我が息子も小学校5年から中学1年くらいまで同じようなことがありました。
当時、息子はマインクラフト(人物・動物・建物・山川海・宇宙などイメージした空想世界を3次元で構築できるゲームソフト)というゲームにハマっており、私が帰宅すると待ち構えていたようにその日に作った映像を見せて説明します。その後に私に「お父さん、どう?」と自信たっぷりに訊くのです。そうして私からフィードバックをもらわないと落ち着かず、寝付くことができないこともありました。
私は、80%は褒めて20%はダメ出しするというパターンで、30〜60分くらい割と丁寧に対応していたと思います。実際、私からのコメントをもらった息子はいつも嬉しそうでした。
不思議なことに、この時だけ息子は私からのダメ出しを素直に受け入れていました(通常、息子は生活態度や不適切な言動を注意されると必ず反抗する、または無視します)。
今、振り返れば、金曜日の夜などは「疲れているから明日にしてくれ!」という気持ちがあったのだろうと思いますが、稀に息子に対してちょっとぞんざいに応じたこともあったと思います。反省しています。
⭐️ その後の息子の成長と近況はこちら
【父親の心得3】
我が子の発達障害特性にしっかり応えろ!
きょうだい児(次男)との親子関係
● 啓介さん(第2子・次男: 定形発達)に対して
次男の啓介と長女の美恵子さんは定型発達ですから、自閉症の俊介さんのきょうだい児になります。常夫さんは、彼らのために時間をかけてあげれなかったことに対して、次のように悔やんでおられます。
じつは私は大いに反省しています。長男ばかりに気持ちを向けてしまい、次男や長女をほったらかしにしてしまったからです。我が家は長男が自閉症という障害を持っていたため、私たち夫婦の関心のほとんどが長男に注がれていました。
引用元: 書籍「50歳からの生き方」p89〜90
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「障害児を抱える親が気をつけなければならないのは、実は障害をもたないその兄弟へのケアである」ということを知ってからは、二人の子どもたちそれぞれと時間を持つようになりましたが、ほったらかしにしてしまった期間は決して短くはありません。そのことを私は今でもすまないと思っています。
私自身も全く然りです。我が家の場合は、息子が小学3年のとき、10年前当時の基準で広汎性発達障害と診断されました。現在の診断基準ですと、ADHD(注意欠如多動症)とASD(自閉スペクトラム症)の両方の症状に該当します。
一方、息子のような顕著な発達障害特性が娘には見当たらなかったので、娘は定形発達だと思っていました。以下に我が娘の事例を詳しくお話しします。
【私の体験談】
息子(ASD+ADHD)は小学高学年のときは学校や家庭でトラブル続きでした。やがて、家庭内暴力が始まり、妻や娘との喧嘩もたえませんでした。
その頃から妻も精神不安定になり、私に対するモラルハラスメントも激化していきました。私は息子と妻への対応で、ストレスがピークに達していました。
そんな中、娘(ASD)は小学3〜4年生で、まだまだ「パパ大好き」という少女でした。ところが、当時の私は仕事も忙しく出張も頻繁にありましたから、娘にあまりかまってあげられませんでした。
私が出張から帰宅すると、嬉しくて私にまとわりつく娘を引き離して、着替えのために自室に入ってしまったこともありました。その時、娘が泣いていたことを憶えています。
そうこうしているうちに、娘は小学5年生くらいになると、私とあまり喋ってくれなくなりました。私は、「娘は思春期だから父親を避けるようになるのはある程度はしょうがない」と勝手に思っていました。罪悪感はあまりありませんでした。
娘は中学に入学して3ヶ月後に担任の先生とのトラブルから不登校になり、それは卒業するまで続きました。その間、娘は強度行動障害を発症しました。そして、高校1年の夏に、娘はASD(自閉スペクトラム症)と診断されました。
私は、「娘は人見知りが激しくてかなり内向的である」とは認識していましたが、小学校時代の娘は友人も複数いましたし学校でも特段のトラブルがなかったので、ASDの診断を受けるほど深刻な特性だとは思っていませんでした。
当時の私は自閉スペクトラム症について完全に理解不足でした。悔やんでも悔みきれない思いです。
⭐️ その後の娘の成長と近況はこちら
【父親の心得4】
手のかからない”きょうだい児”ほど、対話を持つ努力をせよ!
きょうだい児(長女)との親子関係
● 美恵子さん(第3子・長女: 定形発達)に対して
佐々木家では常夫さんが俊介さんや奥さんの世話と家事をメインでこなしておられたようですが、美恵子さんは小学校の頃から常夫さんを手伝っておられたとのことです。
美恵子さんは、手記の中で「みいちゃんの作った料理はうまい、君は天才だ」と父から褒められたと述懐されています。
おそらく常夫さんと美恵子さんとの長年の協力関係が二人の絆を特別なものにしたのかもしれません。そんな美恵子さんが1995年に看護学校での人間関係の悩みから自殺未遂を犯します。
そんな美恵子さんに宛てた常夫さんの手紙には「美恵子は我が戦友」と書かれています。私はこのフレーズを読んだときに、これほどの強固な親子の絆はあるだろうか? と驚嘆しました。いや、親子関係云々なんてレベルではない。戦友とは運命共同体ということなのだから。
お父さんが今までたくさんの人たちと付き合ってきて、あなたほどお父さんが愛した人はいません。あなたの性格、大ざっぱなようできめ細かく、大胆なようで繊細な、そんな あなたの本質はお父さんが一番よく理解しているつもりです。何よりもあなたの生き方がお父さんは大好きなのです。
この家を支えてきたのはあなたとお父さんだったでしょう。あなたはお父さんの類まれな戦友なのですよ。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p97
そして、美恵子さんもまた父親のことを戦友と感じておられたのでしょう。その後の美恵子さんの言動を見ると自分のプライベートよりもむしろ家族のことを気にかけておられることがわかります。
実際、美恵子さんはお父さんから助け舟を要請されたとき、間髪入れずに応じています。以下にその状況を示す記述を紹介します。
(私が家族から離れ大阪で一人暮らしを始めて)何年か経ってから代々木に引越ししたばかりの父から、「部屋中ダンボールの山だよ。お父さんは限界だから東京に帰ってきてほしい」という電話をもらった時は、すぐに家に戻ることに決めました。その頃父は、母のことで他の人には真似できないくらい大変な生活を送っていました。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p157
( )の記載は、文章全体の意味を補填するため、筆者が加筆しました。
【父親の心得5】
戦友と言えるほどの家族の絆を作れ!
ちなみに、私自身も家族に絆を深めるために10年以上をかけて取り組んだことがあります。それは「玄関に並ぶ家族全員の靴を揃えること」でした。その詳細は次のとおりです。
【家族の絆を深めるために私がやってきたこと】
私が「玄関に並ぶ家族全員の靴を揃えること」にこだわった理由は、玄関に置かれた靴の整理整頓の程度は家族の関係性や心の平静と相関があるからです。私の父親は小学校の教師でした。父曰く、「家族の靴が綺麗の揃 っていない家庭ほど家庭内の不和があり、その結果として子供が学校で問題行動を起こす割合が多い」とのことでした。毎年、父は生徒の家庭訪問する時に、ふと気がついたと言います。
要するに、「玄関の靴の並びは家族の絆の縮図」というわけです。実際、私は自らの実体験を通じて、それが真実であることを学びました。
思い返せば、発達障害の息子が二次障害(いわゆる強度行動障害)を起こし、妻が精神不安定になり始めた10年前、玄関の靴はいつも無造作に脱ぎ捨てられていました。
そこで、私はこまめに靴の並びを整えることを習慣化していきました。そして、漸くこの1年くらいで、家族みんなが自主的に靴を揃えてくれるようになりました。それに、呼応するかのように、子供達の強度行動障害は改善してきました。
夫婦関係
● 浩子さん(妻: 肝炎→肝硬変・うつ病)に対して
上述の佐々木さん一家の履歴 (表1)を見ますと、2003年に東レ経済研究所の所長に就任(常夫さんは左遷されたと認識されています)とあり、翌年2004年に奥さんのうつ病が少し回復とあります。
常夫さんの仕事が絶好調の時は奥さんが不調、逆に常夫さんが左遷されたことに呼応するかのように奥さんの病状が回復に向かいます。
娘の恵美子さんはメディアからの取材で「母の3度目の自殺未遂以降、父は家族と本気で向き合うようになりました。」と述べておられます。そして、常夫さんも自分本位の傲慢さに気づかれます。
1984年に奥さんが肝炎を患って以来、うつ病を発症しながらも精神的な意味において漸く回復に向かうまで実に20年もの歳月が経過しています。この一連の家族模様の変化はまるで神様が仕組んだのではないかと思えるようなドラマです。
結局のところ、常夫さんが奥さんに本気で対峙し、奥さんに寄り添う時間を確保することに努められたことが彼のターニングポイントになったのではないでしょうか?
単なる精神論ではなく、妻のためにワークライフバランスを調整して帰宅時間を早めるなど(残業をしない)、彼の具体的な行動が功を奏したのだと思います。
以下に、その潮目の変化を紹介します。
妻が3回目の自殺未遂をしたのは、2001年の10月、私がちょうど役員になったときだった。振り返ってみれば、妻は、私が忙しい時期を狙い澄ましたかのように自殺未遂を繰り返している。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p177〜178
正直に言って、東レ経済研究所の所長になって、私はすっかり力が抜けてしまった。なにしろそれまでは、「東レの社長になる」ぐらいの勢いでいたのである。それが、子会社の社長として、東レ本社の外にポンと出されてしまったのだ。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p180〜181
「私の人生は終わったんだ」
それが当時の偽りのない気持ちだった。
ところが、私が人生は終わったと思い、肩の力が完全に抜けてしまった頃から、妻の病状はぐんぐんと回復してきたのである。
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私に自覚はなかったのだが、娘の恵美子はある種のインタビューに答えるなかで、妻の3度目の自殺未遂の後に私は変わったと指摘している。
「母の3度目の自殺未遂以降、父は家族と本気で向き合うようになりました。私たちと同じ視線でコミュニケーションするようになったというのでしょうか。たしかにあのときに父は変わったんです」
おそらく彼女にとって一番辛かったのは、本当なら自分がやるべきこと、しかも自分が最も得意なことを、夫がやっていることではなかっただろうか。それも、あたかも悲劇のヒーローのような顔をして。あるいは家族のリーダーとしての当然の責務であるような顔をして。
私には、たしかに「してやっている」という気持ちがどこかあった。もっと言えば、「家族のことはみんなオレがやっているんだ。見たか、お前ら」というような、相当に傲慢な気持ちもあった。しかし、妻はギリギリの選択をすることによって、私に訴えたのだと思う。自分を苦しめているのはそういうあなたの気持ちなのだと。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p183
【父親の心得6】
父親は妻に対しても寄り添う時間を十分に確保しろ!
発達障害者家族の人生観
本記事で紹介する書籍2冊に共通して記述されているのが、常夫さんのお母さんの言葉「運命を引き受けよう」です。
おそらく「自分ができること全てをやり尽くして、それでもなお苦難の連続という極限状態を経験したものにしかわからない境地なのかもしれない」と思います。
常夫さんにもそんな曲面が現れます。奥さんが3回目の自殺未遂を起こし、生死をさまよう状況です。そんな過酷な状況でも、お母さんからの教えが常夫さんの支えになったようです。
もはや座右の銘というよりは、体に刻み込んだ佐々木家の遺伝子のようなものかもしれません。
父の死後、母は父が経営する店で定員として働きました。朝はまだ子供たちが寝ているうちに家を出て、夜は10時過ぎまで働き、お休みは盆と正月くらいのものでした。
しかし、そんな働き詰めの状態にもかかわらず、母は暗い顔をしたり愚痴をこぼすこともなく、いつもニコニコ笑顔で働いていました。そして、辛いことがあった時には、「運命を引き受けてがんばろうね。がんばっても結果がでないかもしれない。だけどがんばらなければ何も生まれないじゃない。」と言っていました。
私は「運命を引き受ける」という母のこの教えに、どれほど助けられたかわかりません。
引用元: 書籍「50歳からの生き方」p78
妙な言い方だが、結果として家族に障害と病気のメンバーを抱えていたことが、健康であったら感じなかったかもしれない家族愛を深めたかもしれない。助け合わなければ乗り切れないという緊張感があった。また、家族であるがゆえの責任意識もでてきた。
自らの人生を振り返ったときに、いつも思いだすのは「運命を引き受けよう」と言って微笑む母の姿である。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p201
正直に申しますと、私はまだ「苦難を運命として受け入れるという悟り」には至っていませんが、少しづつ近づいているような感覚はあります。
うまく表現できないのですが、自力ではどうすることもできないという「諦め」の心境と「それでもなお前向き」という心境が同居したような状態です。
【父親の心得7】
自力ではどうすることもできないほどの過酷な苦難を「運命」として受け入れよう!
編集後記
上述のとおり、常夫さんは尋常でないほどの強靭な精神力の持ち主だと感心するばかりです。本の中で、美恵子さんも常夫さんのことを「父の生き方・対応は常人の域を超えている」(「ビジネスマンが家族を守るとき」p158)と評しています。常夫さんご自身も「根っからの楽観主義者」と自称しておられます。
常夫さんはメンタルが疲弊してしまうということはなかったのでしょうか? 不思議なことに、彼の著書をくまなく読んでも、いわゆるカサンドラ症候群(発達障害や精神障害の家族と適切な意思疎通や関係性を築けくことが難しく、その心的ストレスから不安障害や抑うつ状態を発症)の兆候らしきものがほとんど見当たらないのです。
ただ、そんな常夫さんでも流石に辛かっただろうと察する箇所が1つだけありましたので紹介します。奥さんが3回目の自殺を図り、病院で7時間にもおよぶ大手術が終わった直後の場面です。
しかたないのでタクシーで関谷クリニックに連れて行くことになり、夜12時ごろ到着すると、看護師は包帯でグルグル巻きになった浩子を見てびっくりしていた。
この直後の私は、ほとんど限界にきていたのかもしれない。何のために結婚したのか、何のためにこんなに苦労しているのかと思い、これはいったい何なんだ、私の人生はどうなっているのだ、とほとんど自暴自棄の気持ちになった。
引用元: 書籍「ビジネスマンが家族を守るとき」p137〜138
【私の体験談】
私自身も似たような体験があります。
息子はADHDにともなう情緒不安定で入院し、妻はうつ病で別の病院に入院している最中、私は息子と妻の病院を往復しつつ仕事と家事の両立で精一杯というのに娘(ASD)は夜遊びで深夜になっても帰宅しない。
こんなとき、私は耐えきれず、関西弁でひとり絶叫しました。
「どいつもこいつも、ほんまにどないなっとんねん!」
私はどうしようもなく孤独でした。
今、思えば、酷い言い方ですよね。私はまだまだ青二才です。これからも悪戦苦闘が続くと思います。
参考情報のまとめ
● 佐々木常夫さんのプロフィールと書籍/動画のご紹介
株式会社 佐々木常夫マネージメント・リサーチ 代表
(社外業務としては内閣府の男女共同参画会議議員および大阪大学客員教授 などの公職を歴任)
・書籍「50歳からの生き方」人生の後半を積極的に生きる47のメッセージ 佐々木常夫=著
⭐️ 発達障害および精神障害のご家族を守るために悪戦苦闘された佐々木さんだからこそたどり着いたであろう人生哲学がたくさん盛り込まれています。
・単行本「ビジネスマンが家族を守るとき」どうしたらここまで優しくなれるのか 佐々木常夫=著
⭐️ 「発達障害者家族における父親の役割・きょうだい児との対話など家族のあり方」や「家族ケア・家事・仕事の両立(ワークライフバランス)」について考えさせられる本です。
・YouTube「【働き方改革】自閉症の子とうつ病の妻を抱えサラリーマンでも社長まで出世!佐々木 常夫氏「経営戦略としてのワークライフバランス 定時に帰って成果も出す方法がわかります」THE OWNER 公式チャンネル=配信
PS: 上記の2つの書籍とYouTube動画には、働き方改革(テレワーク&ワークライフバランス)についても有益な情報が含まれています。テレワークをテーマにした書評や発達障害者家族にとっての快適な働き方について、別途記事を作成予定です。ご期待ください。
●【投稿記事】発達障害児との親子関係が悪化したとき、親がとるべき関係修復法5選
●【まとめ記事】学校教育(特別支援)と家庭知育(習い事・資格)
●【まとめ記事】毎日が辛い当事者へ
●【まとめ記事】子育て/家事/仕事の両立
●【まとめ記事】発達障害者(知的障害を含む)のご家族の学歴とキャリアの成功事例
●【まとめ記事】発達障害に関する参考コンテンツ(書籍・動画・芸術・報道)
以上
2022年6月28日
マメタ父さん