⭐️ 記事ボリュームは4,807文字です。長文ですが、できれば最初からじっくりお読みください。
はじめに
発達障害者家族の当事者である私が人生の悲哀として痛切に感じることは、「発達障害者として生まれてきた我が子に対する無力感と自責の念」です。
療育・薬物療法・認知行動療法などによって、発達障害の症状がある程度は改善するものの、現代医学で完治できるものではありません。親として子にしてやれることは限られています。
特に重篤な発達障害者(暴力や自傷など強度行動障害を含む)のケアにおいては、家族の体力的・精神的負担は想像を絶するものがあります。
もちろん、発達障害者である本人はもっと辛いことでしょう。ですから、私は父親として「顔で笑って心で泣く」なんてことが日常茶飯事でした。
それでも前向きに歩んでこれたのは、勇気付けられた歌があったからです。それが、さだまさしさんの「道化師のソネット」。
今回は、「発達障害者家族にとっての道化師」をテーマに、私の体験談を綴りながら歌詞を読み解いてみたいと思います。
「道化師のソネット」との出会い
確か3年くらい前だったでしょうか? 息子(ADHD:注意欠如多動症=注意欠陥多動性障害)は学校に馴染めず問題行動を連発し、娘(ASD:自閉スペクトラム症=自閉症スペクトラム障害)は担任教師とのトラブルが原因で強度行動障害(自傷・引きこもり)を引き起こし、不登校になっていました。
妻は子供たちのケアと心労で適応障害を患い、心療内科に通院することになりました。
これら三重苦の中で、私も精神的に追い詰められていました。そんなとき、私の心を大きく揺さぶる出来事がありました。それが、たまたま YouTube で見た「さだまさしさん1の歌 ”道化師のソネット”」でした。
「40年近く前にさだまさしさんが歌っていた」のをテレビで何度か視聴した記憶がうっすらと残っています。当時は子供心に「素敵な曲調だな」と思いつつも、歌詞の意味はわかっていませんでした。
私は「懐かしいね」と思いつつ、ぼんやりと曲の流れを追いかけていると、心に突き刺さるフレーズが飛び込んできたのです。
君のその小さな手には、持ちきれない程の哀しみを
引用元: 「道化師のソネット」の歌詞の一部 さだまさし=著
せめて笑顔が救うのなら、僕はピエロになれるよ・・・
私は、突発的に「この歌は障害者家族のために作られた歌ではないか?」と疑いました。
さだまさしさんが歌う道化師は ”ピエロ”
● 道化師のソネットの歌詞の紹介
あらためて、さだまさしさん1が作詞作曲の「道化師のソネット」の歌詞を紹介します。
笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで
時の流れを下ってゆく 舟人たちのようだね君のその小さな手には、持ちきれない程の哀しみを
せめて笑顔が救うのなら、僕は道化師(ピエロ)になれるよ笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
きっと誰もが同じ河の ほとりを歩いている僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して
息もつかずに登っていく 山びと達のようだね君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを
せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になろう笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
いつか真実(ほんとう)に笑いながら 話せる日が来るから笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
引用元: DVD「 東大寺コンサート 2010」 さだまさし=著 ユーキャン=販売元
笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
ウキペディアによると、この曲はさだまさしさん自身が主演・音楽監督を務めた映画『翔べイカロスの翼』の主題歌として作られたようです。
この映画は、「サーカスのピエロとして子どもに夢を与えようと努力しながら、興行中に転落死してしまった栗原徹氏の実話を、草鹿宏さん著作のノンフィクションをもとに制作された作品」です。
● そもそも道化師とは?
道化師とは滑稽な格好や言動などをして他人を楽しませる者の総称で、一般的には大道芸やサーカスのクラウン(英語のclown)またはピエロ(フランス語のpierrotから派生)を指します。
クラウンとピエロの違いについて、たかはしみささんはコラム「さだまさし”道化師のソネット”とサーカスの裏側にある深い悲しみ」の中で次のように執筆されています。
ピエロの役割とは、とにかく笑われる存在であり続けることである。よく同じ道化師のクラウンとピエロを混同する人がいるけれど、クラウンの顔には涙が描かれない… マクドナルドのキャラクターであるドナルド・マクドナルドを見れば一目瞭然だ。
クラウンは人をバカにしたり、お節介をして笑いを取るけれど、ピエロはひたすらバカにされ続ける役割なのだ。「自分が傷ついても周りが笑ってくれれば僕は幸せ」ということである。
そのバカにされ続けた傷の痛みを悟らせないように演じきる… そんな深い悲しみが、あの白塗りの顔に描かれる涙なのだ。
引用元: たかはしみさ「さだまさし「道化師のソネット」とサーカスの裏側にある深い悲しみ」
さだまさしさんが道化師をクラウンではなくピエロと歌っているのは、「傷心と孤独の象徴」として道化師を表現したかったのではないでしょうか?
ダウンタウンの松本人志さん曰く「芸人の根本はピエロ」
松本人志さんは、さだまさしさんのファンを公言されている”お笑い芸人”の大御所です。
彼は、この曲を「生涯で一番聴いているかもしれない」と語っており、歌詞の内容を「芸人の根本や」とまで絶賛しています(ウキペディアの「道化師のソネット」より引用)。
お笑い芸人の方々は、職業柄の宿命として、いじられ、コケにされ、バカにされ、ときには殴られながらも、その辛さを笑いに変えるのだから、まさに「ピエロの真髄の実践者」と言えますよね。
発達障害者家族の当事者として「道化師のソネットの解釈」
さて、いよいよここからが本題です。この歌の中で私の琴線に触れたのは次の4つのフレーズ(赤字で表示)です。
君のその小さな手には、持ちきれない程の哀しみを
君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを
引用元: 「道化師のソネット」の歌詞の一部 さだまさし=著
「君」とは発達障害児そのものであり、「小さな手・小さな腕」とは発達障害という宿命ではないか、「持ちきれない程の哀しみ・支えきれない程の哀しみ」とはハンディキャップのある少数派として社会から落ちこぼれた哀しみと私は直感しました。
「せめて笑顔が救うのなら、僕は道化師(ピエロ)になれるよ」の僕とは私自身であり、まさに発達障害者家族なのではないでしょうか?
親としては、我が子が背負う苦難を不憫に思わずにはいられません。我が子にはなんら罪はなく、たまたまの巡りあわせでそういう障害を持って生まれてしまっただけだと思います。
ただ、現実問題として、私と妻が死んだ後、この子はどういう人生を歩むのだろうか、親としてどうしようもなく切ない気持ちです。それでもこの歌は私を前向きにさせてくれます。
私が勇気づけられた「最強のフレーズ」がこれです。
きっと誰もが同じ河の ほとりを歩いている
引用元: 「道化師のソネット」の歌詞の一部 さだまさし=著
このフレーズの持つ真の意味はあまりにも深すぎて、未熟な私には正しく解釈することはできませんが、ただただ心を揺さぶられます。
おそらく、このフレーズが「何か人生の普遍的な真実を言い当てているから」ではないでしょうか?
もしかすると、文字通りの単純な意味ではないのかもしれません。「不幸者と幸福者が目に見えない糸で繋がっている」あるいは「誰でも多かれ少なかれ不幸を背負っている」というような話ではないような気がします。
「同じ河のほとりを歩く」とは、「他人(君)の苦難を自ら(僕)の苦難として共有連帯すること」とは言えないでしょうか? 私には、障害者に対する健常者の在り方を暗示しているように思えます。
私自身ができることは、「今、自分の目の前にいる我が子に寄り添う・我が子の苦難を家族として共に引き受ける」ということではないかと感じています。
その鍵が「ピエロの笑顔」ではないかと思います。そういう意味において、ピエロとは「自らの意思で他人の苦難を背負う人」、「他人の罪を自分の罪としてかぶる人」、あるいは「この世の不条理を一身に引き受ける人」と言えるのではないでしょうか?
なぜ、ピエロは自ら火中の栗を拾うようなことをするのでしょうか? それはもう運命としか言いようがありません。
発達障害児の父親はピエロになれ!
ところで、「父性とは断ち切る力、母性とは包み込む力である」と精神科医の樺沢紫苑氏1は YouTube「共働き父性と母性」の中で主張されています。
断ち切る力とは「子供を親から切りなはして自立へと導く力」です。それを担っているのが主に父親です。
一方、母性の「包み込む力」とは子供を癒す力であり、「どんな時も子供の味方であり続ける力」です。父性と母性とは互いに対局する資質ですが、子供の正常な発育には両方がバランス良く必要です。
精神科医の本田秀夫氏2は著書「子どもの発達障害」の中で「子供が発達障害者の場合は親にとって次の3点を考慮した子育てが必要である」と主張されています。
① 子供に無理をさせない。
② 子供の気持ちを大切にする。
③ その子の弱みの克服ではなく、強みを伸ばしてあげる。
以上をまとめると、子供が発達障害者の場合、両親にとって「医学的に正しい療育を前提とした父性と母性のバランスが重要」ということになるでしょう。
ところが、実際の療育の中で、当事者の私は精神科医の方々が主張されている「子育てにおける親の役割と作法」だけでは何かが足りないとずっと感じていました。
それが上述の「ピエロの笑顔」です。
これは父性と母性のどちらに属するものなのか一概には言えない資質です。「中性的なもの」あるいは「同胞のようなもの」と言えるかもしれません。このような考え方は医学的にはナンセンスかもしれませんし、私の個人的な感情論かもしれません。
ただ、それを率先して担えるのは、どちらかと言うと母親よりは父親の方ではないかと思います。少なくとも、発達障害に伴う問題行動が深刻化したとき(例えば暴力や自傷など強度行動障害)、体力的に男親でなければピエロは務まりません。
例えば、子供の奇行や暴力に耐えつつも「これ以上やったら絶対にダメだ」という場面では体を張ってでもくい止め、その後の子供への精神的フォローでは三枚目のオヤジになりきるという優しさが父親には求めれらるのではないでしょうか?
もちろん、状況によっては母親の役回りの方がベターなときもあるでしょうし、シングルマザーの方にとっては一人二役になることがあるかもしれません。
参考情報のまとめ
● 書籍/DVDおよび動画の紹介
1:さだまさし(シンガーソングライター・國學院大学および東京藝術大学 客員教授)
・DVD2枚「 東大寺コンサート 2010」 さだまさし=著
2:樺沢紫苑(精神科医)
・YouTube「共働き父性と母性」樺沢紫苑=著
3:本田秀夫(精神科医・信州大学 医学部 教授)
・書籍「子どもの発達障害 子育てで大切なこと、やってはいけないこと」 本田秀夫=著
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以上
2022年3月2日
マメタ父さん